死神と少女 共通ルート考察

  • 2014.05.21 Wednesday
  • 03:30
死神と少女


全体感想、考察のような感じです。
人様の考察を一切読んでないので、もしも被ってたらすみません。

※補足

「相互依存」という言葉を出したのですが、「共依存」と似ているため
誤解を生みやすいかなと思い、こちらで補足いたします。

共依存は、「世話を焼く側」「世話をされる側」が極端に別れている状態です。

代表的な例として
アルコール中毒に陥った人とその人を介護する家族があります。

世話をされる人は世話を焼く人に無限に甘え、依存していきます。

一方、世話を焼く人も世話をされる人がどうしようもなくダメな状態であるほど
必要とされていると感じ、とことん世話を焼いてしまいます。
世話を焼く人は、世話をされる人がダメな状態であることに依存している。
これが「共依存」です。

対して「相互依存」は、どちらも自立した人間であることが前提となります。
どちらかが困ったときには助け合い、お互いがお互いにとって支えとなる状態です。
お互いに愛情を与え、受け取ることができます。

以上のように、「共依存」と「相互依存」はまったく違う意味を持つ言葉です。

以下ネタバレ感想。
「死神と少女」は入れ子のような構造になっています。

一言で言えば、「死神と少女」は読者(=プレイヤー)に
「幻想との付き合い方」を提示しようとしている作品です。

<信頼できない語り手、あるいは夢見る少女>遠野紗夜
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「紗夜」という名は、「紗がかかった夜」と書きます。そのまんまですね。
一寸先は闇とも呼べる夜。それが遠野紗夜。
紗夜は自分の一歩先になにがあるかも分からずふらふらと歩みを進める<語り手>です。
読者(ゲームなのでプレイヤーが正しいですが、作品の性質上敢えて「読者」とします)は、
紗夜を嫌悪したり、哀れんだり、憎悪したり、呆れたりとさまざまな印象を受けながら
物語を読み進めていきます。
さて、ここで遠野紗夜に受けた印象は後々ブーメランのように
「読者」に返ってくるような構成になっています。

遠野紗夜は語り手でありながら、物語の登場人物でもあります。
そして、物語とは語り手が語らなければ話が進みません。

事実、遠野紗夜が物語に絶望したり、あるいは満足すると物語は終了します。
また、他の登場人物と関係性を築けないと、やはり物語は終了します。
それ以上、話の展開のしようがないからです。

「物語」が終わるということは、「語り手」と「読者」の世界が断絶されることを表します。
「読者」はあくまでも「傍観者(=プレイヤー)」です。<読み手>ではありません。

「傍観者」は<語り手>遠野紗夜と明確に線が引かれており、
彼女の物語に介入できる余地は選択肢以外にはありません。

遠野紗夜は<語り手>であり、<主人公>でもあり、
物語における<お姫様>の役割を背負わされてもいます。
彼女が美しいのはお姫様だからです。けれどお姫様は無力でもあります。

けれど、遠野紗夜は「読者」の存在を知らないため、血肉の通った人間として描かれます。
それはつまりどういうことかというと、
乙女ゲームにおける読者の主人公への投影を、完全に拒絶した存在です。
この断絶は計算された、意図的なものです。

<作者>である臥待春夫の<創造主>であるシナリオライターから
物語の主人公になることを否定されたと言っても過言ではありません。
恐らく一見してすぐに遠野紗夜に感情移入できるとしたら
「自分を美しいと認識していて、金持ちで、両親と確執がある人」だと思います。
限りなく限定的です。むしろ遠野紗夜に感情移入しました、と言ってしまうと
その人がよほど感受性が強いか、さもなくば人生の自己紹介になる諸刃の剣。
普通にするっと楽しめる人は、物語を第三者目線でプレイできる人、
<読者>でいられる人なのです。

よって、多くの読者が抱く「遠野紗夜に感情移入できない」は、<創造主>によって
計算されたもので、初見では感情移入できなくても良いのです。
何故ならこのしかけは読者への挑戦状だからです。
だから「死神と少女」が合わない人は、そうした無言のメッセージを
感じ取ってるからこそ憤っているのだと考えれば、分からなくはない。
でも本当は感情移入できるはずなんですけどね。何故なら遠野紗夜は夢見る少女だから。

では、<創造主>は何故、「読者」の主人公化を拒絶したのか?

遠野紗夜を人間として描きたかった、と言えば美談ですね。ちょっと良い話です。
けれど「死神と少女」に潜む毒は、もっと別のものです。

それは「読者」に、乙女ゲームをプレイしている今の自分の状況を
無理やりにでも客観視させることを強制する目的があったもの
と推察されます。
いやー、グロテスクですね。エグいです。

遠野紗夜は自分が幻想に囚われたことにすら気づけない、弱い少女です。
紗夜にこの世界が物語であり、自分が観測されていると知る術はありません。
これはつまり、遠野紗夜は、傍観者であるプレイヤーに自分が与える印象を、
一切操作していないことを表します。
彼女は自分が物語の登場人物だとは知らず、泥くさくも懸命に生きています。
自分の行動が傍観者の介入によるものだとは分かっていません。
読者は傍観者であり、介入は限定的ですが、物語はすでに完成されています。
物語における可能性はいくつかあるものの、あくまでも有限です。

作り方を考えれば当たり前のことですが、「死神と少女」は、
アドベンチャーゲームであり、遠野紗夜の物語であり、
遠野紗夜のために用意された
数ある物語の可能性を「遊ぶ」ゲームである
といえます。

これは観測者(=読者であるプレイヤー)が、この物語の続きを読むことを
望むかどうか、物語をどのように展開するのか、すべての可能性を読みつくすのか
あるいは途中で物語を投げてしまうのか、という「死神と少女」に対する姿勢そのものを
ある意味で「ゲーム化」してしまったように思いました。

人生は選択の連続です。ゲームとて例外ではない。
すべての可能性を「読み」、「あとがき」を見て、「アネクドート」まで見て、
「死神と少女」は幸福な結末と消えた可能性までも提示して終わります。

そうして、どのように「物語」を遊ぶのか? を、強く意識して作られた作品でした。


<紗夜が至る可能性を客観的に映す鏡>太宰ともゑ
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太宰ともゑを見て、紗夜がどのような反応を示すか。
そして読者(=プレイヤー)がそんな紗夜を見てどのような感想を抱くか。

そこで受けた印象こそが、やがて紗夜の身に起こる出来事を
暗示しているからくりは面白かったです。真相に至ったときはわくわくしました。

私は終始、遠野紗夜を「虐待を受けた子ども」という視点で眺めてしまったので
「死神と少女」が「読者」に仕掛けようとしたからくりには該当しなかったのですが、
太宰ともゑと遠野紗夜は鏡写しのような存在です。
遠野紗夜が太宰ともゑを否定すること、
それは、遠野紗夜自身を否定することでもあります。

そして遠野紗夜が、乙女ゲームという幻想に夢見る「読者」への挑戦状であると考えると
第一章で「読者」が遠野紗夜に悪い印象を抱くのは、むしろ正しい反応です。
ただ、「死神と少女」の目的は「読者」を否定することではありません。こちらは後述します。

遠野紗夜が読者の理想とする反応(事情があったからしょうがない、みたいな)を取らず
眉をひそめたプレイヤーもさぞ多かったかと思います。

太宰ともゑは恋人の愛を信じられず、自分の見たいものを見て自分の信じたい現実を信じて
それ以外のものをすべて拒絶している人です。
これはそのまま、遠野紗夜にも当てはまります。
遠野紗夜からすれば完全に他人事であり、実母を想起させるので、
太宰ともゑの真実に触れたときの彼女の反応は辛辣です。
この紗夜の反応を叩く人も多かったのですが、一般的にはこんなもんだと思います。
太宰ともゑは自分の恋が誰かの幸福をぶち壊すものだという自覚ぐらいは持つべきでした。


挫折を知らない、愛されて当然だった幸福な子どもからの転落。
その象徴である太宰ともゑ。

これは遠野紗夜の過去をそのまま暗喩しています。
自己受容ができていない遠野紗夜には、太宰ともゑが受け入れられません。

まあ、真に情けないのは婚約者にけじめをつけることも出来ず、
在学中に生徒に手を出した挙句、生徒の今後の人生も考えずに
駆け落ちしようとする先生なのですが。

私が太宰ともゑの親だったら、この男との結婚には反対します。
自分の人生にすら向き合えない男が、この先、太宰ともゑを守れるとは思えないからです。

婚約者が太宰ともゑに執着する理由は、理解できる気がしました。
きっと太宰ともゑが幻想の中で苦しんでいる姿が愚かしくていとおしいんだろう。


<幻想を夢見ながらも、実在を選び取る主人公>ルイス
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ルイスは「ユメミルセカイ」の主人公になりたいと望むものの、
結局は漁師Cでしかない男です。
幸福で満たされていて、けれど毎日が同じことの繰り返し。
現実で、物語のような劇的な展開が起こることはまれです。
大体の人が、ルイスの感じる「主人公になりたい」という気持ちを味わったことがあるはず。

それに対する遠野紗夜の言葉は、模範解答でした。
模範解答ですが、まったく心に響かない言葉でもあります。
それは遠野紗夜が物語における特別な存在、<主人公>だからです。
「主人公が普通の人間であれ超人であれ、書き手次第で誰でも
 主人公になれるのではありませんか?」
「自分の物語は、自分が『主人公』です」
「つまらない物語でも、貴方が主人公なら
 それを変えていけるのも貴方自身ではないですか?」
「貴方が自分の物語がつまらないというなら、
 それは貴方の責任なのではないですか?」


それに対するルイスの反応は「うんざりとした表情で」、
「……ほらね、やっぱり君には分からないと言っただろ?」と嘲笑するものでした。
「帰るよ。明日から普通の生活に戻らなければいけないからね」
極めつけは、ルイスのセリフのこの後の、遠野紗夜の一言。
「貴方の発言は、とても夢見がちなもので、理想をただ語っているように思えます」
肥大した自意識を抱えて幻想を夢見る遠野紗夜の、この言葉。
遠野紗夜はまだ自分自身を客観視できていません。
なのでこの言葉は、後でそのまま遠野紗夜に返ってきます。

このルイスの気持ちに賛同するのは日生先輩だけ。
日生先輩は「他者に認められた自己」という当たり前のものすら
持っていないからです。自己がないから他人から奪う。その繰り返し。
名前すら与えられなかった人なので、
彼はのんきに思春期特有の万能感を覚えられるような生活ができない。

それに対して他のメンバーは、お坊ちゃんお嬢さんであり、
いうなれば普通の学生さんで、思春期特有の万能感から抜けきっていません。
「自分は特別な存在なのではないか」という幻想。
普通は、挫折したり色々な障害にぶつかったり、より才能のある人を見て
自分への認識を改めていくものですが、遠野紗夜は
自分の真実を認識することすらできないでいる段階なので、それは望めません。

ルイスにとっての<死神>であるローザは、
そのまま遠野紗夜にとっての遠野十夜にあたります。

ルイスへの遠野紗夜の言葉は、やはりそのまま、後半の遠野紗夜に
ブーメランとなって返ってきます。
この構成が、遠野紗夜にとって実に意地悪ですね。
もちろん、遠野紗夜を客観視せざるを得ない「読者」にとっても。


<幻想と生きることを全面的に肯定し、
 励みにしながら実在に生きる苦労人>夏目悠希

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夏目くんは「幻想」を友達としていながらも、
ズバズバとものを言う性格と庶民的なところが
読者にとって共感しやすいキャラクターでした。

このルートで描かれるのは、幻想が実在にいる大切な人に抱く想いです。
幻想は確かに幻想なのですが、幻想にも感情があり、想いがあり、
情があるのだということを切々と描いています。

その友情に心打たれて、紗夜や夏帆、先輩たちは正体もわからないのに
ヴィルヘルムに協力するのですね。しかも最後まで夏目くんは正体に気づけない。
完全な一方通行です。しかしそれが、本来の「幻想」との付き合いでもあります。
「幻想」を認識できるほうが「普通ではない」のです。

夏目くんは幻想の友人(ぬいぐるみ)であるヴィルヘルムを心の拠り所にしており、
唯一、心許せる友人と見なしています。
ヴィルヘルムは夏目くんを心配し、助けになりたいと願うも、
所詮は幻想にすぎず夏目くんに存在を認識されていないため、
助けようとしても感謝されることはありません。
ヴィルヘルムは夏目くんが苦労する羽目になった顛末を知っているため、
夏目くんのために紗夜に怒りを示す場面すらあります。

ですが、夏目くんはヴィルヘルムからなにも求めていません。

「なあ、何でお前はそのぬいぐるみを大事にするんだ?
 ぬいぐるみはなにも出来ない。お前ももう大きいし、男の子だろ?
 そんな汚いぬいぐるみより、もっと別の良い物があるはずだ」


ヴィルヘルムのこの問いに、夏目くんは「そんなのない!」と激しく反発します。

「このぬいぐるみは、俺が一番悲しい時もひとりぼっちの時も
 一緒にいてくれた大切な親友なんだ! 誰にも馬鹿にさせない!!
 ぬいぐるみで友達でなにが悪い!!」


「幻想」はそこにあるだけでいい。寄り添うだけで救いになる。
夏目くんはきっぱりとそう言い切り、物語もそれを肯定します。

結局、夏目くんがヴィルヘルムを意志ある幻想として
認識することは最後までありません。
だけどそれでもいいのです。
ヴィルヘルムは夏目くんに見返りを求めているわけじゃない。
ただ幸福になってくれることだけを望んでいます。
そしてその気持ちは、夏目くんも同じ。

ヴィルヘルムは夏目くんの気持ちに感動し、満足して、姿を消しました。

このルートは「実在の人」がたとえ成長しても「幻想」との絆は揺らがない
訴えるためのルートです。

「幻想」が友達だっていい。
「幻想」を愛したっていい。
「幻想」を心の支えにしてもいい。


そうして「幻想」とのつながりを全面的に肯定してから、
物語はいよいよ確信に迫っていきます。


<僕を定義づけるのは、主体か、客体か。
 理想の王子様、あるいは自己同一性を奪われた人>日生光

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理想の王子様は、「幻想」の中にしか存在しません。
実在の世に生きる人が他人にとっての理想の王子様になること、
それは「自我の否定」です。

日生光(本物)は、日生紫の抱く「完璧な孫」という「幻想」に耐え切れずに出奔します。
そこに、たまたま日生先輩(偽者)が現れたことで、成り代わります。
日生先輩は本物と顔の面差しは似ていたものの、雰囲気や口調は
ちょっと違っていたはず。
けれど髪型から口調から完璧に本物を真似て、
日生紫の理想を体現することに成功したため、
日生先輩は「日生光」として承認されます。違和感はいくつもあったのに。

日生先輩は人形ではなく、意志のある人間です。
だから「自我」がある。それは隠しきれるものではありません。
気づく要素はいくつもあった。けれど気づけなかった。
それは日生光(本物)を、誰も見ておらず、誰も望んでいなかったからです。
そうして日生光(本物)は否定されてしまいました。

日生先輩は日生紫を騙し通すこともできたでしょう。
本物を殺せば、日生光としてずっと生きていくことだって不可能ではなかったはず。
でもそうしなかったのは、やはり日生先輩に自我があり、潮時だと判断したからです。
それはどうしようもなく揺らいであいまいで、それがあると分かるのは
日生先輩(偽)だけだったけど、確かに自我があります。
感情がある。想いがある。
けれど誰にも認識されない。誰にも定義されていない。
その在り方はどこか、「意志のある幻想」と似ています。

日生先輩は誰かに成り代わることで、「実在」を得る。
だけど、日生先輩は紗夜に恋をしました。
日生先輩は紗夜を愛し、彼女の望むまま、今まで遠野十夜が担っていた役割を
奪い取って、彼女にとっての理想の王子様になろうとします。
いずれは日生光でいられなくなる、タイムリミットは確かにあったものの
日生先輩はせめてその間だけでも紗夜の王子様になろうとしました。

日生先輩ルートでは紗夜が日生先輩を肯定し、お姫様になることで
二人は王子様とお姫様として幻想の中で生きることになりました。

ただ、日生先輩は紗夜に選ばれるとは思っていません。
だからこそ共通ルートでは、日生先輩は紗夜のために、
いずれ訪れる幻想との別れの瞬間のために、あらゆる準備を整えて去るのですね。

このルートで描かれるのは、
人間が実在の人に「幻想」を見るのはどういうことか、です。
そして、「実在」は他人から承認されて初めて得られます。


<幻想との決別、幻想喪失の受け止め方の良き見本>桐島七葵/千代
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桐島先輩にはもう一つ役割がありますが、
ここでは「見本」としての桐島先輩を見てみます。

桐島先輩は実在の人であるにも関わらず、「幻想」の中に生きています。
「幻想」である千代とずっと一緒に生きてきて、けれどあるときから、
桐島先輩は幻想への依存を断ち切ることを意識するようになります。

桐島先輩/千代ルートでは紗夜は幻想に生きたまま、千代が見え続けています。
対して、桐島先輩は「幻想」がすべて見えなくなり、「実在」に生きています。
これは紗夜が、「幻想」との別れを拒絶しているルートです。
十夜兄さんは消えていますが、
紗夜が「消え逝く幻想」である千代に追い縋る姿が描かれます。

それに対して桐島先輩は身を以て、
紗夜と読者に「どのようにして喪失を受け止めるか」を手本となって示す存在です。
桐島先輩は涙を流さず、辛くてもただ受け止めて、実在を選択します。
紗夜はそんな桐島先輩を肯定し、憧れ、寄り添って生きていく。
千代ルートだと紗夜は「幻想への恋」を失いますが、
「幻想」である千代は満たされています。
また、共通ルートでも個別ルートでも、桐島先輩と千代の友情は揺らぎません。
千代にとっての「幻想」であった春の桜を見ることは叶わなかったにも関わらず。

共通ルートでは、桐島先輩は千代が見えたまま、
紗夜だけ千代が見えなくなってしまいます。
これは紗夜にとって、いずれ訪れる「幻想の喪失」の模擬試験のようなものです。
紗夜は無意識のうちに「読者によって選択させられて」実在に生きる道を選びます。

選択肢は「読者(=プレイヤー)」が選んでいる。
そして、読者は物語の真実を見ようとして、<創造主>の手によって
実在に至る道を選ばされているのです。

いずれの「幻想」も、願っているのは「大切な実在の人の幸福」です。

焦がれて止まぬ幻想への恋。
けれど、恋を失っても、喪失を受け止めて、実在に生きていかなければならない。


物語はそう提示して、真実が見えてきます。


<私の愛する幻想、イマジナリーフレンドである死神>遠野十夜
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遠野十夜は、遠野紗夜を全肯定する「幻想」であり、
恐らくは乙女ゲームの攻略対象を意識して生まれたキャラクターです。

でも現在、読者(プレイヤー)は紗夜を客観視するよう
強制されているため、べったべたに依存しあうその様を
大変微妙な気持ちで見つめることを余儀なくされています。

ここで鍵となるのは、十夜兄さんには意志があることです。
十夜兄さんは心が、感情が、想いが、自我があります。でもそれを殺しているんです。
十夜兄さんは「死神」である、自分を表す唯一の記号すら否定して
紗夜のそばにいて、「紗夜を全肯定する兄」になろうとしています。
しかもその試みは、十夜兄さんの海より深い愛情によって成功しています。
これはとても異常で、恐ろしいことです。でもきっと、尊い。
十夜兄さんがどれほど自分を押し殺して生きてきたか、
消滅の瞬間に怯えながら、それでも紗夜のために自分を犠牲にしています。
紗夜にはその想いが届いてすらいないのに。

紗夜のために。
紗夜の望む「幻想」を体現するために。


日生先輩の項で、他人の理想を体現することは「自我の否定」だと書きました。

紗夜は幼い頃のトラウマゆえに、「死神」に救いを求めてしまい、
「幻想」の中に生きて、「幻想」にさらなる「自分の理想」という幻想を夢見ています。

つまりこれが乙女ゲームなんです。

物語は、<創造主>はそう言おうとしている。
心にぐさぐさ来ちゃいますね。嫌だなあ。気持ち悪いなあ。
だから、「死神と少女」が受け入れられない人は、こうした無言のメッセージに
敏感な方なのだと思います。

でもここまで見てきた通り、「死神と少女」は、「幻想」を否定していません。
むしろ肯定しています。
ただ、「幻想との付き合い方」について、
「読者」と物語を通して無言の対話をしようとしているだけです。
それについては蒼の章で述べます。

とりあえず、<作者>である臥待さんの思惑も後で書くとして、
ここでは十夜兄さんの話をします。

十夜兄さんは、それでも構わないと言います。紗夜が幸せでさえあれば。

けれど紗夜は真実を目の当たりにしたとき、十夜兄さんと
ともに生きることを選択します。

十夜兄さんが「実在」になることは決して叶いません。
「幻想」と「実在」は断絶されています。物語はそのルールを覆しません。
けれどこのまま紗夜が十夜兄さんとともに生きることはできない。
人と違う道は辛く苦しく、理解されなければ迫害されます。
そして、紗夜は一人で生きる力を持たないからです。

そこで紗夜は「幻想」である十夜兄さんとのハッピーエンドを迎えるために
みずからが「幻想」になることを選択します。
そのためには「実在の肉体」は不要です。むしろ邪魔なだけです。

日生先輩が紗夜に選ばせてくれたおかげで、紗夜は十夜兄さんと幸せになるために
「実在の肉体」を捨て、死を以って「幻想」となり、
二人はずっと幸せに暮らしましたとさ、めでたしめでたし。

「読者」であるプレイヤーは、ここで物語を閉じることも可能です。
それは「読者」の自由です。

けれど「読者」は物語を読みつくすことを願い、<創造主>は読まれることを望むもの。
よって、次に残された<実在の死神>、蒼の章に向かいます。


<幻想に囚われ、現実から逃避し、幻想に成り代わることを望む人>蒼
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蒼は<死神>=「幻想」になりたいと望んでいる人です。
何故なら「実在」において身の置き場がないからです。

蒼は幼い頃に「幻想」としての記号を付けられてしまったがために、
彼自身が自分を「幻想」=<死神>と定義してしまいます。
不幸なことに、その認識を否定する人は誰もいませんでした。
それどころか、<魔法使い>臥待春夫にその認識を利用されてしまいます。

<死神>は二人いらない。
<死神>になりたいのならば、<死神>を殺して成り代わるしかない。


蒼はそれを強固に信じて、紗夜を殺そうとします。
紗夜こそが幼い蒼に「死神と少女」という、心の支えとなる本を
渡してくれた少女だと気づかぬまま。
けれど紗夜を守ろうとする<死神>遠野十夜によって、
蒼は記憶を消されてしまいます。

これはつまり、蒼が「自我」だけの状態になったということです。

そうして蒼は紗夜との交流の中で無意識のうちに紗夜を救う言葉をかけて、
紗夜は十夜兄さんから得られなかった救いを初めて得ます。

他人からの肯定。
紗夜がどんなに焦がれても決して得られなかったものです。

大好きな父親からも、大好きな継母からも、大嫌いな実母からも
見も知らぬ他人からもひたすら否定され続けた紗夜は
大好きな十夜兄さん(=紗夜の幻想)を肯定し、
認めてくれる他人に、ようやく望んでいた形で肯定されました。

受動的だった十夜兄さんから受ける愛はとても甘く、決して傷つかない代わりに
すべてが紗夜の自己愛の鏡に映った言葉です。
十夜兄さんは覚悟を持ってその役割を引き受けていました。
幼い紗夜の心が壊れないよう、やがて紗夜が喪失を受け入れるだけの
強さを得る日まで守り続けていた。

けれど蒼のそれは違う。
蒼は紗夜の「自我」を承認した上で肯定してくれたのです。
初めて得る救いに、紗夜はたちまち恋に落ちて、
「実在の他人」である蒼を愛するようになります。

何故、この役割を引き受けるのが臥待さんじゃだめだったかというと、
紗夜が速攻で恋に落ちたことから分かるように、
臥待さんは紗夜の愛に応えられないからです。
理由は後で述べます。

けれど、紗夜が「実在」の蒼を愛することは、
紗夜のためだけの「幻想」である十夜兄さんの否定であり、裏切りです。
紗夜は十夜兄さんのために蒼への愛を否定しようとします。
十夜兄さんを失うと思った紗夜の半狂乱ぶりは、声優さんの熱のある演技もあって
まさに悲鳴そのものでした。
けれど結局はそれも出来ず、紗夜は十夜兄さんと向き合い、
「実在」で生きる蒼のためにみずから別れを告げて、「幻想」と決別します。

そして蒼の元に走り、蒼の「幻想」を紗夜が命を賭けて否定することで
蒼を<死神>という思い込みから解き放ち、二人は「実在」で
ともに生きることを選択するのでした。

断っておくと、適度な相互依存は
良好な恋人関係を継続させるために非常に重要な要素
です。
加えて、想いの強さは二人とも、大体同じであることが望ましい。

どちらかの想いが強すぎても弱すぎても現実生活とバランスが取れなくて難しいし、
相互依存がなければ「恋人に必要とされている」実感を持てないため、
やはり関係の破綻を招きます。
※「私って、あなたの何なの? 仕事と私、どっちが大事なの?」的なアレ

よってこのルートはまごうことなくハッピーエンドです。

依存が良くないのは、それが一方通行だからです。
普通、好きでもない他人に寄りかかられると重いし、
寄りかかってるほうは一人で立てていない。いつまで経っても弱いまま。
けれどお互いに寄りかかっているのなら、それは支えあっていることになります。
好きな人の適度な重みは頼られているようで嬉しいし、
好きな人に寄りかかることができるのは許容の証です。
私も日生先輩みたいに都合良く理想の王子様やってくれる人か、
さもなくば十夜兄さんみたいな全力で依存できる幻想が欲しいです


恋とは相手に夢を見ること。
そして相手を知るうちにその幻想との差異に気付き、
ありのままのその人を受け止め、肯定し、愛する。


物語は読者に「夢見てないで現実見ろや」と突きつけて
読者を「幻想」から「実在」の世界へと送り出し、読者は傍観者の役目を終え、
気持ち良く紗夜の物語は幕を閉じるのでした。


<内包された作者、精神科医、共犯者、そして魔法使い>臥待春夫
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臥待春夫は精神科医です。であるならば、彼は紗夜を治療しようとしたはずです。
けれど、両親の配慮もクソもない対応のせいで、臥待さんが
事態に気づいたときには紗夜はがっつり心を閉ざしていました。
恐らく臥待さんは白雪を失くして、彼は彼で想うところもあって
大変だったのかもしれません。

ただ、紗夜の幻想である十夜兄さんは強固です。
恐らく投薬治療じゃ幻想を消せなかったものと推察されます。
あと紗夜はただでさえ身体が弱いので、幼少期から投薬に依存させるのを
良しとしなかった可能性もあります。
もともと紗夜の身体の不調は精神的なものが強く、
これ以上は薬漬けになってしまい、まともな社会生活が送れなくなると
考えたんじゃないかなあと思いました。

で、過去の臥待さんが紗夜を手っ取り早く癒すには、臥待さんが
十夜の役割を引き受けて、紗夜の父親になる以外に方法はありません。
真実を突きつければ紗夜の心は壊れるだけです。
紗夜はどっぷりと臥待さんに依存するでしょう。
でも臥待さんは紗夜の父親ではないし、紗夜のためにも良くない。

けれど臥待さんは諦めなかった。
そこで彼は、紗夜が自然な形で幻想から卒業できるように
仕込みをしながら、時を待つことにした。
イマジナリーフレンドは通常、成長すれば自然と消えます。
最初はそれを期待していたかもしれませんが、本物の父親の無神経ぶりを見るに
本物の父親は自分のことしか考えられないタイプの人であり、
加えて実母の虐待と周囲からの奇異な目線で
保護者も理解者も誰もいないと来ているので
紗夜の幻想は消えるどころか、ますます自己防衛本能に促されて
強まるばかりです。

臥待さんは紗夜に必要なものは分かっていた。
それを与える方法も知っていた。
ちょうど同じ頃、たまたまイリヤを知った臥待さんは
両者をいっぺんに、かつ平和的にぱっと治療する方法として
イリヤにもしかけをします。
臥待さんはイリヤを利用しましたが、治療したい気持ちもあったはずです。
大事な友達の子どもたちですから。
どっちもろくでなしに引っかかったようですが。

さて、臥待さんは遠野十夜の<共犯者>でもあります。
臥待さんは紗夜を治療できないのならば、
せめて悪化させないようにと考えた。

対話の基本は、相手を否定しないことです。

普通、人間は誰かに頭ごなしに否定されると心を閉ざします。
「幻想」に生きている紗夜にとってはなおのこと。
臥待さんは紗夜とコミュニケーションを取り続けるために、
依存されないよう絶妙に距離感を保ちながらも、
遠野十夜が実在しているように振る舞います。
「幻想」である遠野十夜は、臥待さんの思惑にすぐに気がついたはずです。
二人は紗夜の幻想を守るために、話を合わせます。

実際に遠野十夜に相対したときのやり取りから見て分かりますが、
噛み合ってるようであんまり噛み合ってないんですよね。
「お久しぶりです」「相変わらず仲良しなのかな?」など、
挨拶といった当たり障りない言葉、次の言動が予測できる言葉しか言っていません。

臥待さんはさらに、紗夜の心を守りつつ、紗夜の幻想にうまく干渉するために
<作家>遠野十夜を実在させます。
紗夜は遠野十夜の本であればかじりつくように読むはず。
なんといっても大好きな十夜兄さんの本ですから。事実、そうなりました。
<死神>遠野十夜に選択肢はありません。
遠野十夜は、<作家>という役割を引き受けます。

死神と少女、そして生み出された数々の童話たち。

これらはいずれも、臥待春夫による間接的な治療です。
臥待春夫は、遠野十夜という幻想を通して、紗夜を治療しようと試みた。
とりわけ、ルイスの物語などが象徴的です。

ところが紗夜の幻想はそんなに生ぬるいものじゃありません。
治療できないまま、とうとう高校生になってしまいます。
ちょうどイリヤが成長したこともあり、臥待春夫は奥の手を使います。

蛇の道は蛇。目には目を、歯には歯を。
幻想には幻想を。

イリヤを呼び寄せて、イリヤに死神を殺させることで
ショック療法を起こそうとしたのですね。
ところが<死神>遠野十夜は記憶を消すという斜め上の手段で迎え撃つ。
臥待春夫は仕方なく、二人が自然に恋に落ちるよう、
なにげなく背中を押しながら様子を見ることにした。
街を案内するように、と言ってデートを匂わせるところが印象的です。
臥待春夫は、同じ「死神と少女」という幻想に囚われている者同士、
通じ合えるものがあるはずだと共感し合える可能性に賭けた。
他にも太宰ともゑ、ルイス、ヴィルヘルムなど、紗夜が自分で気づけるように
さまざまなロールモデルを配置しました。

また、臥待春夫は自分が<作者>であることに自覚的でした。
この物語の主人公は紗夜です。
一連の出来事が誰のための物語かというと「読者」のためです。

そして、「読者」は「乙女ゲーム」という幻想に囚われている。

<読み手>である桐島七葵の存在は、臥待春夫にとっては想定外だったでしょう。
けれど途中から物語に参加してきたことで、臥待春夫は桐島七葵の存在に気付き、
「幻想」にありながら自我を見失わない彼をお手本とすることで
紗夜にどう生きるかを示そうとした。

また、臥待春夫は<内包された作者>でもあります。
言うまでもありませんが、「死神と少女」は実在するシナリオライターによって
書かれたものです。物語は、物語を通して作者と読者が対話することでもあります。
<創造主>であるシナリオライターは、<内包された作者>として
自覚的な臥待春夫を通して物語を綴り、「読者」であるユーザーと
「幻想との付き合い方」について、ひとつの解釈例を提示しようとしたのだと思います。

それに応えるために、「現実の読者」である自分はこんなにだらだらと
ブロガーとしてクソ長い感想文を垂れ流しているわけです。

最後に、桐島先輩の話をしてようやく終われると思います。
ここまで読んでくれた方、もしいたら本当にありがとうございます。


<内なる読者、読み手、認識される傍観者>桐島七葵
死神と少女 応援中!

物語とは、<作者>と<読者>との対話です。
特に「死神と少女」はその傾向が特別に顕著です。傾倒していると言っても良いでしょう。
この場合、想定される読者は、我々、乙女ゲームユーザーです。

※ここで言う「作者」は臥待春夫ではなく、広義的な意味であるとします。
シナリオにせよ小説にせよ、また絵を描くにせよ、
作品を生み出すとき、「作者」は読者の反応を想定しながら物語を綴ります。
そのときに出てくる「読者」とは、作者が人間である限り、
作者自身の心から生まれる声、<内なる読者>を意識して生み出されます。

そしてシナリオライターが想定する読者像とは「乙女ゲームユーザー」です。
「死神と少女」が「乙女ゲーム」として売りだされた以上、
これは間違いありません。
そうした「内なる読者」に向けて、作者であるシナリオライター、<創造主>は、
「幻想との付き合い方」について、<物語の主人公>紗夜を通して対話をしようとしました。

何度も言いますが、「死神と少女」は幻想と生きることを肯定しています。

ただ、「乙女ゲーム攻略対象」という「幻想」に依存しないでね、
夢を見たら現実も見てね、と言おうとしているのです。

桐島七葵は<読み手>であり、物語の世界の住人ではありません。
彼は気付いたらここにいて、桐島家の養子になっていたと言います。
そして、桐島七葵は長い間、千代という幻想の友人を心の支えに生きてきた人です。

桐島七葵が<創造主>の提示するお手本である以上、
彼は<創造主>の想定する理想像であると考えるべきです。
そして、桐島七葵は作中ではっきりと<読み手>とされています。

よって、桐島七葵は、もとは<創造主>の<内なる読者>が変化したもの、
つまり我々の分身
だと考えられます。
<創造主>は<内なる読者>と対話するうちに
<内なる読者>桐島七葵は<キャラクター>桐島七葵として
自我を得て、「死神と少女」の世界に迷い込んだ
のだと解釈しました。

だからこそ<物語のあとがき>で<内包された作者>臥待春夫と
舞台裏について対話することを許されます。

美しい幻想物語はあとがきを以って、物語は千代に八千代に続くという
答えを提示しました。


あとは、まだやんのかよって感じですが紗夜の継母について
思うところがあるのでもうちょっと記事を書く予定です。
良かったらお付き合いください。

最後に、記事を書くにあたり参考にさせていただいた
熊谷孝様の文章を引用してこの記事はおしまいとします。
お疲れ様でした。皆様、良き幻想を。

===引用ここから===

「作品を書くということは、読者・鑑賞者のそのような声なき声に耳を傾けつつ、そのような読者――それは、いわば作者の〈内なる読者〉である――へ向けて視座を用意しつつ書く、ということである。したがって、そこに設けられた〈読者の視座〉にこそゆがみない作家の創造主体が反映されているはずなのである。なぜなら、作家の側から言って、自己と読者との唯一の伝え合いの通路となりうるものは、自分自身で用意したこの〈視座〉以外には求めえないからである。」(熊谷孝/『芸術の論理』

===引用ここまで===

全文を読みたい方はこちらから。
文教研ウェブサイト様より
コメント
初めまして。
PSvita版で『死神と少女』を知り、一通りプレイして大変興味深く面白かったものの
「あとがき」まで進むと作品の構造を理解できず、考察サイト様を検索致しておりました。
此方の記事でわかりづらかった点を綺麗に整理して頂けていたので一言御礼を…有難うございます!すっきり!

言葉ひとつひとつの意味を正しく理解し丁寧に使ってらっしゃる印象を御記事に感じ、最後まで興味深く拝読致しました。
作品のテーマまで切り込んだ御考察に
「凄いゲームと凄い考察に出会えた…!」と嬉しいです。

沢山のゲームに関して書いてらっしゃるので他作品に触れた際もこっそり拝読しに参りたく思います。
どうぞお身体に気を付けてご無理なくお過ごし下さいませ!
御礼と感想まで、失礼致します。
  • 雨鳥
  • 2019/09/01 10:30 PM
雨鳥さん、初めまして!
「死神と少女」はとても考察が楽しい作品でした。
素晴らしい作品への理解を深めるにあたって、こちらの記事が少しでも
なにかの助けになったのならとても嬉しいです。

作品そのものが言葉の意味にこだわっている印象を受けたので、
記事を書いているときはどのように解釈するべきか頭を悩ませたのを覚えています。
感想記事は作品の素晴らしさによって成り立つ部分が大きいので、
「死神と少女」という作品の魅力を一部でもお伝えできたのなら
記事を書いてよかったです。

また暇つぶしにでも遊びに来てくださると励みになります。
更新の遅いブログですが、いつでも遊びに来てくださいませ。お待ちしております!
雨鳥さんもご自愛ください。
コメントありがとうございました!
  • 大樹@管理人
  • 2019/09/08 9:27 PM
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