コメント返信

  • 2016.08.02 Tuesday
  • 13:09
コメントいただきまして、ありがとうございます。
シロウさんへのコメント返信が長すぎたため、こちらで返信させていただきます。

なお、別記事に戻ってコメントを参照するのも手間かと思い、
シロウさんのコメントをこちらで引用いたしました。
もし不都合があるようであればご連絡ください。
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こんにちは、大樹さん。感想が増えててとてもうれしかったです!
しかもオースフィ!!オースフィじゃないですか!!
雪山のボスが2体出たときに、回復アイテムがなく、戦闘中に羊の種を植えて凌いだのを思い出します(笑)

オーディンスフィアはVITA版で初めてプレイしたのですが、私は感想を言葉にして表現することが野暮ではないのか、あるいは、言葉にすることで陳腐なものだと自分で貶めやしないかと――まさに汚してしまう責任をとれない、怖いと思ってしまったことを思い出しました。私の言葉を目にする機会のある方がオーディンスフィアを神聖視していたのもあるのですが……。
プレイしてそのまま考えることなく、発露した感情以上のものを言葉にする自信がなかったのも確かで、大樹さんの感想はとても面白かったです。

ものの数分の邂逅で愛を示す言葉を、尊厳を守ろうとする意志を示したから、惹かれたというのはまさにその通りですね。
私もあの二人がなぜ惹かれあったのかということがあの短い間でそうなることに不自然さがないところがとても好きだなあと思っています。
父から求めていた愛を得られたのに、色あせて見えてしまうっていうところは、ああ、そうか、なるほどしっくりくるなあと思いました。私などはもっと単純に、そこで王に褒められようが当然という振る舞いをされようが、グウェンドリンはもう既にラグナネイブルのもとにいるわけではないが、最後の義理を果たしにいった(果たさずにはおれなかった)くらいの気持ちで見ていました。
父としての尊厳を守るために選択の余地がなくなるラストというコメントも少し笑ってしまいました。本当にそうですね。第三者からすると、オーダインの取った行動がもっと違うものなら、グウェンドリンを失うこともなく、覇権を握ることも夢ではなかったのだろうに……とまでいくと、実際難しいと思いながらも(なぜならグウェンドリンは捨て身で愛を示してくれたオズワルドだから、たった一人の人間だからこそ、あそこまで頑張れたと思うので)ありえなくもなかったのにね、みたいな感じで……。
オーダインのした仕打ち(もの扱い)をみれば、妥当で、そりゃだれもいなくなるわ、部下には裏切られるわ、国も滅びかけるわなとか(ぶっちゃけすぎですね)

ところで、ここから個人的な問題も踏まえての感想になるのですが、大樹さんの意見をお聞きしたいなあと思ったので、もしよかったら聞いてください。
「それはグウェンドリンの望む愛のかたちではなかった。
相手が望まぬ愛を自分の都合で無理やり押し付けるのは、暴力と変わりません。」
についてはオーダインが自分の愛の形をグウェンドリンに押し付けることを言ったとおもうのですが、私はこれを見て微妙に衝撃を受けました。なんだか……身動きが取れない話だなあと……。
この理屈でいうと、グウェンドリンはオーダインを愛ゆえに変えられないからです。それが暴力になるから。(実際にグウェンドリンはオーダインを変えようとすることはありませんでした。)しかし暴力にならなくても、オーダインが変わる方が幸せなのかはわかりませんでした。オーダインにとって、愛よりも誇りを選ぶことは正しいことなのに。私が感じたのは、愛を惜しいと思う気持ちはあれども、誇りに殉死する気持ちこそ正義で、守るべきルールだという思いはおそらく、オーダインにとって、強がりではなく、真実だと思ったのです。(あ、その……考え方が大幅にずれていても、私という人間がそう捉えたと仮定して想像してください……)

では、オーダインは(最適解として)どうすべきだったのだと大樹さんは思いますか?
オーダインの行動はオーダインしか決められないので、これは完全に私的な質問なのですが……。→
シロウ 2016/07/20 4:50 PM


→補足すると、それがラグナネイブルに根付いた価値観でもあるくらいで、オーダインは自分の望む形の愛(個人の情を捨ててでも、国を大きくすることで、国および個人を守ることがオーダインにとっての情になりうる)を与えることは、「オーダイン自身が望んでいる」と「オーダインが思っている」限り、正しいことです。
それがオーダインにとって結果守るべき愛を失おうが、失い続けないといけないし、失うことを平気に思おうとすれば、それなりに愛を知ってる(だが見ないふりをする)オーダインからすると、道具であると思う方が楽なはずです。自分を自分で変えること(つまり、娘を思いやって、娘の求める愛を与える親に変わること)が国を弱くすることだと信じていれば――揺るがぬ魔王たらんとすれば――思いやりを持つに持てない。
ただ、私は、そんなオーダインが、ベルベットについては、揺らいだのにもかかわらず、揺らげなかったことが引っかかりました。
結局優先順位を変えられないことについて嘆くそぶりさえ見せられずに、ただ、グウェンドリンに感謝しているのだろうさまは、息苦しそうで、そういう、自分を曲げないことによってこうむるしんどさから逃れられない人を見ると、どう在ることが幸せなのかわからなくなりました。逃れる気がないのか、逃れたくないのかなんて、感じ方の違いで、結果は同じなんでしょうが……。それに、幸せのあり方や、今が幸せかどうかを決めるのは本人以外の誰もできないのですが、物語を通してみて、自分に置き換えると、やっぱりわからないなあと思ってしまって。

私は、自分らしく、自分が思うように生きることこそが幸せなのだと教育されてきました。だから、オーダインのような生き方は幸せでなくてはならないはずなんです。それなのに、どうして彼はしんどそうに見えるのでしょうか。それとも、そういうふうに見えるのはオーダインの状態がどうあれ、私自身が持つ、愛を大切にすべきだという思いこみがオーダインを歪めてしまっているから?
自分らしくあることと相手を思いやって、自分を変えることが両立できるというのは、オーダインのような場合でも可能なんでしょうか。

こうやって私が大樹さんに聞くことで、その答えをずばり我がものにしようと考える責任を押し付けようとする意図ではないので、気軽に応えていただけたらなあと思います。……ま、まあそもそも、自分が答えを明確に出せなかった問いについて考えていただくのも、ただ甘えているだけで気が引けるのですが、私はそれでも、大樹さんの出した答えを聞いてみたいと思ったので、時間があるときにでもお返事いただけたら幸いです。

追伸
自覚があっても矯正まで至ってないのですが、へたな乙女ゲーム(失礼)よりも読みにくい文章ですみません……。答える上でわかりにくいところがありましたら、伝えていただけると助かります。
シロウ 2016/07/20 4:51 PM

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★シロウさんへ


シロウさん、コメントをいただきまして、ありがとうございました。
可能な限り早くクリアしたつもりですが、お待たせしてしまって申し訳ありません。

エンドロールを見ましたので解答いたします。
質問に的確にお答えするために、該当箇所を抜粋させていただきました。

当たり前のことなのでわざわざここで言及するのも、「ご意見番気取りかよ」と勘違いしてるようで若干恥ずかしいのですが、これは私の個人的な意見及び解釈となりますので、特に下記の考えを押し付ける気持ちはありません。





また、これより先にはネタバレがございますので、未プレイの方はご注意ください。






(1)オーダインが変わる方が幸せなのかはわかりませんでした。オーダインにとって、愛よりも誇りを選ぶことは正しいことなのに。私が感じたのは、愛を惜しいと思う気持ちはあれども、誇りに殉死する気持ちこそ正義で、守るべきルールだという思いはおそらく、オーダインにとって、強がりではなく、真実だと思ったのです。
===
既に仰っている通り、これはオーダインにしか出せない答えだと思います。
客観的に見て不幸なように見えても、本人が不幸だと感じているとは限りません。
ただ、私もオーダインにとって真実だという部分は、同意見です。



(2)では、オーダインは(最適解として)どうすべきだったのだと大樹さんは思いますか?
===
我欲と恐れを手放し、自分(誇り)を守ることに固執しなければ良かったのではないでしょうか。

捕捉しますと、その回答は作中の、誇りについてはコルネリウス編、恐れについてはメルセデス編、愛についてはグウェンドリン編とオズワルド編、どうにもならない辛い運命に相対する方法はベルベット編で、それぞれ出されているように思われます。

誇りや気高さというものはいかなる姿になっても、どんな状況に置かれても、自分の心次第で持ち続けられ、失われないものだと「オーディンスフィア」は提示しています。

また、オーダインは女王になったメルセデスに完敗しました。
復讐を望む心(憎悪=感情)や国を支配したりコルドロンを利用したりする気持ち(=我欲)などを乗り越えて王として采配を振るったメルセデスに、です。
つまり「オーディンスフィア」は、オーダインよりもメルセデスのほうが王として理想的だと示している。

オーダインは過剰なほど「王としての誇り」を守ろうとして、臣民の目を気にしすぎているように思われます。さらに強くなりたい、国を強くしたい、他国を支配したいという欲に振り回される。
そして、決まって家族や愛がその犠牲になっています。
オーダインが誇りを守ることに固執するのは、恐れと欲が根底にあるからだと思いました。

人に幻滅されたくない、詰られたくない、誇りを失いたくないという恐れと、
人に強くて威厳のある王だと思われたい、王として尊敬されたいという欲です。

そこにこだわらなければ、オーダインの視野はもっと広がったと思います。

その上で、オーダインに正義と誇りがあるように、人にも人の正義や誇りがあることを汲み取れば良かったのではないでしょうか。
恐れがなくなれば余裕が生まれ、欲を抑えられれば欲に振り回されることもなくなり、相手の立場に立って考えることもできるようになります。相手をどのように利用するかを考えるのではなく。
それは、ひいては人を「この指輪の如く価値がある」などとモノと同列に扱うことをやめ、歩み寄る姿勢を見せることにもつながります。
オーダインは王ですから、綺麗事ばかりで国は回らないかもしれない。
でも、不必要な戦争を回避するぐらいは充分に可能です。

さらに付け加えますと、私は、オーダインは己の言動の報いを受けた、ただそれだけだと考えております。



(3)(中略)オーダインは自分の望む形の愛(個人の情を捨ててでも、国を大きくすることで、国および個人を守ることがオーダインにとっての情になりうる)を与えることは、「オーダイン自身が望んでいる」と「オーダインが思っている」限り、正しいことです。
===
価値観とは、なにに重きを置くか、ものの価値をどのように捉えるか、という個々人の中にある優先順位付けです。

仰るように、オーダインにとっては正しいことだったかもしれません。
しかし正しさや正解は複数あり、ときに正しさは衝突します。
今回の場合、グウェンドリンの「正しさ」とオーダインの「正しさ」が衝突したのです。
お互いに共存できない以上、別離の道を歩むしかないと思います。
ただ、愛の価値を低く置く以上、オーダインの行き着く先が「孤独」になることは、オズワルド編で示されています。
オーダインの場合、孤独でない代わりに、彼の行き先は死の国となりました。



(3)(中略)オーダインのような生き方は幸せでなくてはならないはずなんです。それなのに、どうして彼はしんどそうに見えるのでしょうか。
===
自分の望みを正確に理解していないからだと思います。
まず顕在意識でなく、潜在意識にも目を向けねばなりません。


多くの人が勘違いしていることがひとつあります。
それは、自己との対話は、思うほど簡単なものではないということです。
自己との対話はコミュニケーションです。
そして、己の孤独や欺瞞や短所を直視することでもあります。

人間は自己欺瞞の生き物であり、多面性があります。

つまり、人は自分に嘘を吐くのです。脳の指令が、必ずしも自分の望みであるとは限りません。長く心の声を無視してきた人ならばなおさら。
人は他人の価値観や世間体や社会常識や環境やその他もろもろに騙されて、本来の自分が望まないものに重きを置く場合があります。
まず潜在意識と顕在意識で既に言っていることが違ったりします。

とりあえず大きく分けて、人間には、「自分」というものが二つあるとします。
「理性」の声と、「心」の声です。

「理性」は脳が与える指令、「心」は理屈でなく心から湧き上がる声と言うべきでしょうか。

ここでひとつ例え話をします。
△△さんが◎◎さんにたくさん話しかけているとします。しかし、話しかけても話しかけても◎◎さんは無視します。その場では頷いたり分かったようなことを言ったりしますが、最終的に◎◎さんは△△さんを無視します。◎◎さんが耳を傾けるのは、■■さんの言葉だけです。いくら△△さんが言葉を尽くし、必死に訴えても、◎◎さんは△△さんを黙殺します。無視します。△△さんの声はくだらないものであり、下等であり、価値のないものだと断じます。そして、◎◎さんは■■さんの言葉こそが正しく立派なもので、至上であると考えます。
△△さんは、◎◎さんのことを好きになるでしょうか?

普通に考えて△△さんは◎◎さんを嫌いになるか、そうでなくとも「◎◎さんに話しかけるのは無駄である」と悟って、単純に諦めるのではないでしょうか?
それでも△△さんはめげずに話しかけられるでしょうか?
どれくらい頑張れるでしょう?
毎日毎日毎日毎日話しかけて、数十年近く無視され続けたらどうでしょう?
それでも◎◎さんへ歩み寄る努力をし続けられますか?
もはや△△さんの心も擦り切れて、疲れきってしまっているのに。
だんだん△△さんが◎◎さんに話しかける声には自信がなくなっていき、声は小さなものになり、やがてなにを言っても無駄だと沈黙するようになります。
△△さんは傷ついて、ないしは不愉快に感じて、心を閉ざしてしまうのではないでしょうか?

さて、人は心を閉ざした相手に対して、どのように接するでしょうか。

ここで、「△△さん」を「オーダインの心(家族への愛)」、「◎◎さん」を「オーダインの理性」、■■さんを「オーダインの誇り」に置き換えてみましょう。

オーダインは「王としての誇りを重視せよ」という「理性」の声には従ってきたものの、「誰それを愛している」という「心」の声は徹底的に無視、あるいは抑圧してきました。オーダインは理性に従って生きることこそが正しいと信じて疑わず、理性の声にだけ従って生きることを選択したからです。

オーダインがしんどそうに見えるのは、彼が自身の「心の声」を無視してきたからだと思います。
「心」もまた、オーダインを構成する要素のひとつです。
つまり、「心」の声を否定するということは、結局のところ自己を否定しているということなのです。
もちろん、すべて心の声だけを聞いて生きられません。
ですから、「心」と「理性」を共存させたうえで少しでも居心地よく暮らしていくためにも、自分とよくよく話し合い、メリットとデメリットを上げた上で考え、自己を説き伏せ、納得させ、落としどころを探るという自分とのコミュニケーションの必要性が生じます。
オーダインはそれをしていません。彼はみずからの中にある愛に対してすら不誠実です。
それなのに、人の愛に対して誠実でいられるでしょうか?
聞く耳を持つのは難しいと私は感じます。
だってオーダインは、自分の心の中にある愛すらも、誇りの前では無視しているからです。

また、「幸せでなくてはならない」という思い込みに支配されている場合もあります。
あるいは、他人の「幸せのモデルケース」を見て、「◎◎は幸せ」という価値観をろくに精査せずに自分の中に輸入してしまうと、このような現象が起こります。
オーダインの場合は、ラグナネイブルの「誇りが第一」という価値観が該当するかもしれません。

人とは奇妙な生き物で、必ずしも自分が幸せになる選択だけをするとは限りません。
不幸になると分かってても、さまざまな要因が重なると、分かっていても不幸になる選択を選んでしまうこともあります。
理由はさまざまです。プライドとか、変化への恐れとか、過去とか、いろいろです。



(4)自分を曲げないことによってこうむるしんどさから逃れられない人を見ると、どう在ることが幸せなのかわからなくなりました。
===
人が使える時間は限られています。人生は有限です。
なので他人のことはひとまず忘れるべきだと思います。
それは彼らのこなすべき課題で、グウェンドリンの手に負えないからです。

グウェンドリンはグウェンドリンの心とよく話し合って決めるしかないと思います。
ここまでして、自分を曲げずに生きることが、本当に自分にとって幸せなことなのか。
自分を曲げられないというのは思い込みではないのか。
そう思い込んでしまっているのは、本当は恐れや欲によるものではないかと。

「しんどさから逃れられない人」がグウェンドリンにとって愛する人や、
大切な人だったとしたら、見ているだけというのは歯がゆく、とても辛いですね。

でも、グウェンドリンはオーダインの人生を生きられないのです。
グウェンドリンが生きられるのは、グウェンドリンの人生だけです。
これは現実として受け止めるしかありません。彼女はそれを理解したのだと思います。
仮に相手を置いて行きたくない場合、グウェンドリンに出来ることは、そばで待つことだけです。

たとえ話や母のドレスを着るなどしてなんとなく示唆を与えたり、意見を聞いてくれるようなら意見するのもいいかもしれません。
難しければ単に心配してる、共感してる、あるいは味方であるという気持ちだけを見せるのも良いでしょう。

グウェンドリンは、十数年これをやってきました。結果として無駄でした。
彼女はそれを悟り、自分の心に従うことにしたのだと感じます。
オーダインにその選択を責める資格はありません。
その選択は、オーダインのこれまでのグウェンドリンへの態度の報いだと思います。



(5)自分らしくあることと相手を思いやって、自分を変えることが両立できるというのは、オーダインのような場合でも可能なんでしょうか。
===
オーダインが自分でそのことに気づき、その事実を受け入れ、「変わろう」と決意しない限り不可能だと感じます。
老年にさしかかりそうなときまでこの価値観で生きてきたとなると、非常に厳しいです。
愛した女人を死なせてもオーダインは変わりませんでした。
彼が変わる可能性は、無と素粒子の間にあるものぐらい小さいものと同様の確率しか残されていないように思います。端的に言えばほぼ無理です。
オーダインはそういう人なのだと受け入れて、オーダインのことを考えるのではなく、作中にあるように、まずグウェンドリンのほうが付き合うか付き合わないかを決めたほうが建設的です。

付き合うならば付き合う方法を模索し、付き合わないのならばストレスにならない距離にまで遠ざかります。あるいは絶縁します。冷酷なようですが人生は有限であり、人生は選択です。グウェンドリンの人生には限りがあります。
オーダインに人生を消費される暇はないのです。
望んでいた愛をくれたオズワルドを傷つけて捨ててまで、グウェンドリンはオーダインを選ばなかった。
私はグウェンドリンのように、オーダインを、つまり親を捨てる選択も肯定します。
グウェンドリンにはグウェンドリンの人生があり、オーダインのために犠牲にすべきではないと考えるからです。
たとえ王女として「正しくない」のだとしても。


やや脱線しました。可能か不可能か、というか、オーダインの選択と、オーダインが選択に伴うメリットとデメリットをどう判断しているかにもよると思います。


◎自分らしくあること

オーダインが、「自分らしくとはなにか」をよくよく考えたようにも思えないのですが、とりあえずオーダインは「自分らしく」=「威厳のある王」としていますね。
その「自分らしく」によって人が離れてしまうのを避けるために、柔軟性を見せるのは、自己の否定とは言い切れないと思います。
なぜなら、「好きな人と離れるのは嫌だ」という自分の中の声を採用した結果なのですから。
「この人といるときは、肩の力が抜ける。自分らしくいられる」
「この人がそばにいないと、自分らしさを忘れてしまう」というケースもあります。
だからこそ、大切な誰かのために自分を曲げることが、「自分らしい」といえる場合もあります。
なんだか禅問答のようでもありますが、「自分らしさ」の定義によると思います。


◎相手を思いやって、自分を変えること

オーダインは王の誇りとグウェンドリンを天秤にかけます。
オーダインが変わらなければグウェンドリンは去ります。彼女は作中で明確に別れを言葉にしている。オーダインは選択を迫られます。

すなわち、自分を曲げてまで、誇りを捨ててまでグウェンドリンに手を伸ばすかどうかを。許しを乞う言葉を口にして、行かないでくれとみっともなく縋るかどうかを。
その選択は正直、あまり格好良いものではありません。
しかも、それでもグウェンドリンがオーダインのもとを去る可能性は高い。
彼女の心は既にオズワルドのもとにあるからです。
作中で、オーダインは誇りを選びました。
これはもうどうしようもないことです。
それがオーダインの選択なので、グウェンドリンに出来ることはその選択を尊重することだけとなります。
両者が折り合わなかったからこそ、別離になったのです。
とはいえ、子どもはいずれ親のもとを自立するものですが。


ご質問の回答になりましたでしょうか。長すぎて引いてるかもしれませんね。
私も自分で自分に引いてるので大丈夫です。一緒です。
なにか回答に漏れがあったり、不明点などあったらお気軽にどうぞ。

正直、コメントいただいた時間帯も時間帯なので、ひょっとしたら重箱の隅を突き回すような小姑の如き当ブログにコメントしてしまったことを、我に返って後悔されているかもしれないと思っております。だらだらと長い回答を見た後はさらに。
回答の方向性をおおよそ察した上でコメントされているとは思いますが、仮にご期待に添えなかった場合、残念ですが人選ミスだったと潔く諦めてください。
また別の感想でよろしくお願いします。

念のために付け加えますと、私自身は楽しく回答しました。
コメントありがとうございました!
コメント
大樹さん、こんにちは!
私の拙い言葉を受け取って下さっただけでも十分に嬉しかったですし、その上、丁寧な返答を頂きまして本当にありがとうございました。
たくさんのお言葉、どれもこれも新鮮で、色々と気付く点がありました。私の為にお時間を割いてくださって、ありがとうございます。とても興味深く読ませていただきました。理解しやすく順序立ててくださっていたので、読みやすかったです。
全てを拾って、「そうですね、その通りです!」などと逐一書いていくと単純にレスのレスが2倍以上になりますので、強く伝えたい部分以外は割愛させていただきます。折角書いていただいた言葉を部分部分でないがしろにして流しているわけではないことだけご了承いただけると幸いです。


・最適解について


私の考えでは、欲を持ち、望みを持つことはそれがどんなものであれ、良いことであり、生きること(自分の人生を生きようとすること)は欲を持つことでもあるのではないかと思っていました。ですので、手放さなければならないものに我欲が含まれていて驚きました。
しかし、コルドロンを利用しようとすることは我欲以外のなにものでもなく、ティトレルの指環に拘るオーダインに対しては「早く諦めればいいのに(それがなくても、ラグナネイブルは強く在れるであろうに)」と思っていたので、現状に対して抱く心情と自分の持つ理想像について、自分で把握しきれていないのだと思います。落差というか、食い違いというか……。
大樹さんが自己とのコミュニケーションは難しいことだと後述していますが、恐らくそれがうまくいっていないことが原因のように思います。自分にある溝を埋めようを躍起になってもうまくいかず、よく立ち往生しては歯がゆく思いながら問題を放置してきたことを思い返さずにはいられませんでした。

ところで、誇りについても(オーダインは自身と誇りがイコールなので、自分を守りすぎないということだと思ったのですが)絶対に守るべきものだとしなければよかったのだ、ということも自分にはない考え方で、だからきっと、オーダインもそんなことを考えやしなかったのだろうなと思いました。
誇りは心のありようによって保たれるものであり、失われるものではないと提示されているということは、自分で守るべきものの範囲におかなくてもいいものなのかもしれません。
それに、オーダインが持っている誇りは根底に恐れがあるのであれば、コルネリウスの誇りとはそもそも同じものとして語っていいものではありませんね。
たとえば、コルネリウスは誇り高い人間ですが、それは「獣の姿になった自分がせめて『コルネリウス』たる自分(人間らしさ)を手放さないように、誇りだけは手放してなるものか」或いは「王子である自分であることは変わらないのだ(という王子に固執している状態)」と思っているわけではありません。そういう風に考えていれば、それこそ恐れが根底にある誇りであり、保身を第一とするようになっていたと思います。
だから、誇りとひとくくりに呼んでしまっているから(それで合っているはずなのですが)ややこしいのであって、起因させた感情の方が、要するに、心の方が大切なんですね。(というと、語るほどでもない当然のことだったのだということを感じざるを得ません……・)
だから、誇りを持つことをすべからく、いいように思っている私の考え方が「じゃあ、どうしてオーダインの誇りを持って生きているのに、どうしていい方向へ導かれないのであろう、おかしいなあ」という結論で止まらせてしまっていたように思いました。→
  • シロウ
  • 2016/08/03 6:12 PM
・恐れがなくなれば余裕が生まれ、欲を抑えられれば欲に振り回されることもなくなり、相手の立場に立って考えることもできるようになります


人目を気にするあまり、選ぶことのできない選択肢が現れることは当然ですが、逆にいえば、人目がなければ選べる幅が広がり、選択肢が増えることが余裕になるのですね。選択肢があることが必ずしも余裕に繋がるわけではないですが、選択肢が一つしかなければ余裕が持てないことを想像すれば、オーダインにとって、選択肢などなかったのだろうと(自分でそのように選択したのだろうと)思いました。

それにしても、恐れがあるというのは、おそらく自信がないということなのだと私は思っているのですが、ああやって、人前で堂々としていて、自分を持っているようにみえるオーダインが臣民の支持を得る自信がないというのは面白いなあと思います。
きっと、オーダインの理性が叫ぶ「王たるものはこうでなければならない」という範囲から少しでも逸脱してしまうと、臣民からの支持失うことになる(=結果的に王として敬われることもない)のだということを信じていたのでしょうね。そして、それを信じたのはオーダインによる、オーダインのものさしが「もし自分が臣民であれば、そんな王は王として認めない」と思っていたからなのではないかと思いました。オーダインらしくある(心に従う)ことは、批判の対象となることで(そして自分はグウェンドリンを責める)、誹りをうけることになる。だからオーダインが心に従うグウェンドリンを詰ったのは、自分が自分で戒めていることを、グウェンドリンに許すということが出来なかったのかもしれないと思いました。それは狭量だということの証明に他ならないだけですが……。

また、欲を抑えることが欲に振り回されないことだというのは思ってもみなかったことだったので感心しました。私自身、「欲を抑えるということ」そのものをしなければならない状態こそが、振り回されていることではないのかと思っていたんだなと思います。きっと、そうではないんですね。その前にコントロールを怠っているから、結果的に振り回されてしまうのに、コントロールしないことが欲に振り回されないことなのだと勘違いしていたのだろうと思います。その屁理屈がなじんでいると「おかしい」とも思わないものなんですね。私が忘れていただけで、同じことを繰り返しているだけなのかもしれませんが、そうでないことを祈りつつ、覚えておきたいなと思いました。


・自分の望みを正確に理解していないからだと思います
・彼はみずからの中にある愛に対してすら不誠実です
・また、「幸せでなくてはならない」という思い込みに支配されている場合もあります
・人とは奇妙な生き物で、必ずしも自分が幸せになる選択だけをするとは限りません
・オーダインが自分でそのことに気づき、その事実を受け入れ、「変わろう」と決意しない限り不可能だと感じます。


理性と心の声のたとえ話、おもしろかったです。

何がいいのか悪いのかなんて、結果をみてどう思えるかということでしか判断が出来ない。だからこそ、いいものを選んだと思いたければ肯定したほうがいい。「好きなものを選んだ。だから今幸せである。そうでなくてならない。選ばなかった選択肢をよかったと思いたくない。」

きっとそういうことだったのかなあと思いました。でも、そもそも、『肯定した方がいい』と、思うことが結果的に、自分を無意識にだますことになってしまうこともあるのだと思いました。(意識的な自己欺瞞についてはここでは置いておいて)

望みを正確に理解するというのは、いわゆる、自分が何をもって幸せを感じられるかということを理解することなのかなと思ったのですが、それってとても難しいですね。何故なら、その時々で変わる答えに対して、楽をしようとして、揺るがないものを設定しようとしてしまう己の怠慢があるからです。
本当に色々と、見ようとしてこなかった・自分が無視してきたものの氷山の一角が次々と表れて、段々面白くなってきました。自らのなかにある愛は、オーダインにとっては、潜在意識だったのでしょうね。→
  • シロウ
  • 2016/08/03 6:14 PM
◎自分らしくあること
・オーダインが、「自分らしくとはなにか」をよくよく考えたようにも思えないのですが

(笑)


・その「自分らしく」によって人が離れてしまうのを避けるために、柔軟性を見せるのは、自己の否定とは言い切れないと思います
・だからこそ、大切な誰かのために自分を曲げることが、「自分らしい」といえる場合もあります


目からうろこでした。私は大樹さんのこの言葉が一番好きで、感銘を受けました。
そこで、ここまでのレスを通して気づいたことをお伝えしたいと思います。
私はAという理屈をすべての場合に当てはめて考えなくては、矛盾が生じる。それは不誠実である。と思っていたようです。この場合で言うと、柔軟性を持つことを悪と捉えていたのでしょう。
人が離れることを避けることは、そうですね。悪いことではないはずです。初めの方で「人目(臣民の目)を気にしすぎるオーダイン」の話がありましたが、人が離れることを避けることも「人目を気にすること」と同一視というか、混同して考えていたのだと思います。全体を見るということができていないのですね。だったら、細部に囚われずにもっと考えるべきなのだということになるのでしょうが、その理屈をどうにも、実行できるレベルではわかっていないように思います。いやあ、参りました。私が恐ろしいと思うのは、『結果として無駄でした』。そういう風に待っていてくれた誰かや与えられていたチャンスを殺しているのかもしれないことに気づけないだろう自分です。きっと、報いは受けているのでしょうが。


・グウェンドリンのように、オーダインを、つまり親を捨てる選択も肯定します
・たとえ王女として「正しくない」のだとしても


正しさは複数あり、衝突する。と大樹さんが述べていましたが、だからといって、正しいことを選ばなくてもいいのだということは気が楽になるなと思いました。その場合、王女として正しくないけれど、愛してくれる・愛する者のもとを選ぶことは、一人の人間としては、正しい選択だったのだと、「正しい」からは脱しているわけではないのでしょうが。


◎相手を思いやって、自分を変えること

何か言いたいことがあるわけでもないのですが(おい)、綺麗にまとまってて面白いなあと思いました。別離を選ばなくても、子供は自立して旅立つものだというオチも含めて(笑)


なんだか絞まりのないコメントで終わってしまいましたが、大樹さんの返信コメントはとても読んでいて、すごく面白いなぁと思ったことが伝わったでしょうか。
また、次の感想記事についてコメントがあるのですが、この件の続きでもあるので、ざっと通して読んでいただければと思います。わたしの方こそ、訪問者という立場で自分で引くほどの長文を送りつけてしまい、申し訳ありません。気を悪くしていなければいいのですが……!
  • シロウ
  • 2016/08/03 6:19 PM
ご返信いただきありがとうございます。
こちらこそ、受けとめてくださってうれしく思います。


(1)(中略)生きること(自分の人生を生きようとすること)は欲を持つことでもあるのではないかと思っていました。
===
シロウさんの返信を拝見して、確かに、「欲」「誇り」などは同じ言葉を用いてしまっているがために、わかりづらくなってしまったと気付かされました。言葉は難しいですね……。

こちらは、例えば「火」や「包丁」と同じように、使用者の心持ち次第で意味合いが変わると思います。

火は家や集落に放てば、たくさんの人の命を奪う凶器となりますが、焚き火にすれば人に温もりを与えてくれますし、料理に用いれば温かな料理を提供してくれます。
同じように、包丁を人に向かって振り回せば人を傷つける武器となりますが、包丁は食べ物などを切ることに使えば生活を豊かにしてくれる便利な道具です。

それと同じように、欲も誇りも使用者がそれらをどう捉え、どう扱うかによるものだと感じます。

ですので仰るように、生存欲と言ったりもしますから、生きることは欲でもあります。
欲も誇りも、どのような方向性で発露するのかは、主体によって強く影響されるものといえますね。

恐らくオーディンスフィアは「誇り」の方向性による明暗を描きたかったのだろうと思います。

コルネリウスの「誇り」と、オーダインの「誇り」。

似ているようでいて決定的に違うのは、コルネリウスの「誇り」(自尊心)は自己に根ざしているのに対し、オーダインの「誇り」は他者の目があってのものです。

まずコルネリウスは人に良く思われたくて行動しているわけではありません。
コルネリウスの行動は、彼自身が、ベルベットやタイタニアという国、父を愛しているがゆえのものです。

それに反してオーダインの「誇り」は臣民の目への恐れと我欲がつきまといます。
ベルベットを助けたいと思っても、臣民に王として否定されることを恐れて、行動を起こさないためです。
コルネリウスは父王にベルベットが「相応しくない」と言われても意に介しませんでした。プーカになってからも。

コルネリウスのように、みずからが真の意味で誇り高くあれば、そもそも人にどう思われようと気にならないはずなのです。
例えば、父王などに存在を否定されれば、悲しくはあるだろうけど、コルネリウスは己の選択を恥じてはいないからです。
いくら父王にベルベットを諦めるよう促されても、コルネリウスがとうとう首を縦に振ることはなかったように。

そう思うと、オーダインの「誇り」は、仰るように「保身」と言い換えたほうが本来の意味に近づくかもしれません。



(2)(中略)人目がなければ選べる幅が広がり、選択肢が増えることが余裕になるのですね。
===
それが楽な道ではありますが、ベストなのは、人目を気にしすぎないことだと思います。
とはいっても、人目を気にしないから傍若無人に振る舞っていいという意味ではなく、自分に自信をもち、自分の選択を信じる気持ちが大切ではないかな、と感じました。
オーダインは「自分の中にある理想の王」によって、たくさんの選択肢を無意識に排除してしまったのかもしれません。



(3)そして、それを信じたのはオーダインによる、オーダインのものさしが「もし自分が臣民であれば、そんな王は王として認めない」と思っていたからなのではないかと思いました。(中略)自分が自分で戒めていることを、グウェンドリンに許すということが出来なかったのかもしれないと思いました。
===
ああ、そうですね。仰る通りです。
実際の臣民というよりも、オーダインの中にいる『臣民』なのですよね、彼が気にしているのは。

人は自分に禁じられていることや、自分が自分に禁じていることを他人がやっているのを見ると、憎しみを覚える側面があります。
「自分はそれができないのに、あいつはやっているなんて許せない、けしからん」
「自分はそれができないのだから、あいつも同じようにやらないべきだ」という……。

人や環境に実際に禁じられている場合と、思い込みによって自分で自分を縛っている場合もありますね。
  • 大樹@管理人
  • 2016/08/03 10:14 PM




(4)欲について
===
欲そのものを否定するばかりでもそれはそれで弊害がありますから、難しいところです。
つまりは、「足るを知る」というところに集約されるのかもしれません。

欲も野心も、方向性を誤らなければ人を向上させるものでもあります。

「どうありたいのか」「どういう自分でいたいのか」をよく考えて決めることが大事なのだと感じます。
人の幸せのモデルケースなどを輸入するのは楽ですし、社会から認められるとされる生き方をそのまま生きるのも、ものを考えなくてよくて、ある意味で楽なのだとは思います。
理解を得やすいので、安心感もあるでしょう。
オズワルドがメルヴィンに言われるままに生き、
グウェンドリンがラグナネイブルのワルキューレとして生きていたときのように。

でもそれは、生きながらにして死んでいるような、他人の人生を生きているようなものなのかもしれません。
存在しない幻(青い鳥:父の愛)を追いかけ続け、主導権を他人(メルヴィンやオーダイン)に渡してしまっています。

だからこそ、誰かに従うのではなく自分の意志で生きる道を決めることが大事だということを、オーディンスフィアは伝えようとしているのでしょう。
先入観に囚われてしまうと、自然と選択肢が狭まってしまう側面はあるはずです。



(5)「好きなものを選んだ。だから今幸せである。そうでなくてならない。選ばなかった選択肢をよかったと思いたくない。」
===
「これまでの努力がすべて水の泡で無駄だった」「自分の選択は間違いだった」ということを認めるのは辛く、悔しいものですね。
でも人は失敗するものです。

オズワルドが、メルヴィンの愛を盲目的に信じて、隠された思惑に気づけなかったように。
グウェンドリンが、オズワルドの愛のあかしである指環をオーダインに渡してしまったように。

失敗したらまたやり直せばいいですし、道を間違えたら引き返して歩み直せばいい。
それがオーディンスフィアで出された答えでした。
つまり、失敗を自分に許してあげることが鍵になります。

誰だって転ぶのは痛いものです。
失敗してしまった、でもいいじゃないか、こういうこともある。と、自分に寛容になることが大事なのだと思いました。
ただ、自分に寛容になった挙句、教訓を忘れて同じ失敗を繰り返しては意味がありません。
自分を許しつつ学ぶ姿勢を忘れないのは、言葉で言うのは簡単でも、難しいですね。



(6)望みを正確に理解するというのは、いわゆる、自分が何をもって幸せを感じられるかということを理解することなのかなと思ったのですが、それってとても難しいですね。何故なら、その時々で変わる答えに対して、楽をしようとして、揺るがないものを設定しようとしてしまう己の怠慢があるからです。
===
現実に向き合うのは辛いですし、誰だって失敗したくないものですよね。
確実にうまくいく方法があれば、本来の望みとは違っても、そちらに流れてしまいたくなるのも理解できます。
取り返しがつかなくなったらどうしようと恐くなるのも分かります。

でも、これはたぶん自覚の問題なのだと思います。

人生は有限であり、行き着く先をどこに設定したいか、ということの。
賢竜ハインデルは「どんな生命も死からは逃れられぬ。(中略)だが運命は違えもする」と言いました。
自分はいつか死ぬ、この生命はある日突然いきなり終わる、ということを感覚として理解できるかどうかだと思います。

そして楽な方に流され続ける人生が最終的にどこへ行き着き、自分はそれに対して後悔せずにいられるかを、希望的観測によらず現実的に判断できるかどうかということが、明暗を分けました。

例えばコルネリウスは、プーカの身に甘んじてプーカの隠れ地下街で、ベルベットやタイタニアのことをすべて忘れてぬるま湯のような日々を生きることも可能でした。
グウェンドリンはオーダインに道具扱いされてる事実に目を瞑れば、求めてやまなかった仮初めの父の愛を手に入れられたと錯覚できたかもしれません。
ベルベットは「運命だから仕方ない」と諦めて引きこもっていれば、バレンタイン王の前で恐怖に震えることもなかった。
イングヴェイの辛い真実も見なくて良かったはずです。
メルセデスは、メルヴィンの操り人形になることを選べば、甘えた王女のままでいられたでしょう。
オズワルドは死を受け入れれば、グウェンドリンへの失恋の痛みと二度目の絶望を経験せずに済みました(誤解でしたが)。

しかし、そこで辛い現実から目をそらせば、待っているのは終焉だった、というのがオーディンスフィアのテーマでした。


  • 大樹@管理人
  • 2016/08/03 10:15 PM
===


オーディンスフィアは素晴らしい作品なので、自分の文は作品のおかげだともいえますが、それでもシロウさんになんらかの示唆を与えられたのなら光栄です。
でも、一番はシロウさん自身が気づこうとしたことが重要だと感じます。
いくら言葉を尽くしても、聞く気がない人や、気づくつもりがない人には届かないからです。
アリエルがバレンタイン王に愛を訴えても終焉に至るまで伝わらなかったように。
その頃にはバレンタイン王も引き返せなくなってしまいました。
その意味では、今回はたまたま自分の文がお役に立てましたが、シロウさん自身が気づこうとする気持ちがあれば、もっとたくさん見えてくるものはあると思います。



◎「正しさ」について

「正しさ」は時代や立場や文化などによって本当に簡単に変わってしまいます。
人の「正しさ」に縛られすぎると、自分を見失ってしまいやすくなります。

例えばオーダインは「王としての正しさ」を選択しましたが、
ベルベットはオーダインに対し「親としての正しさ」を求めました。
グウェンドリンへの仕打ちに対し、「それでも親なのか」といったことを言っていたように。

臣民からは理想的な王とされる(とオーダインが思っている)かもしれませんが、
ベルベットからは「親失格」の烙印を押されたわけです。

なにを「正しい」とするかは、自分で決めるしかありません。



こちらこそ、こうしてお話することで新たに見えてきたものもあり、有意義な時間でした。
次の感想記事にも、コメント返信させていただきたいと思います。

基本的にぼっちなので、あんまり人と話すことを想定しないでブログを運営しているのですが、
たまにこうして構っていただけると私も楽しいです。
また気が向いたときにでも、コメントを送ってくださればと思います。
  • 大樹@管理人
  • 2016/08/03 10:15 PM
遅くなってすみません。捕捉いたします。

(7)自らのなかにある愛は、オーダインにとっては、潜在意識だったのでしょうね。

私は、オーダインが「愛している」と思っている意識こそが顕在意識で、
潜在意識は「保身」一択だと思いました。
潜在意識とは、普段は意識していない、自覚のない意識だからです。
オーダインは、自分では家族を愛していると思っていますが、取る行動は真逆です。
そして「王として正しくないから仕方ない」と毎回のように言い訳します。

これは、潜在意識のほうが「保身」で占められているからこそ起こる現象だと考えました。


>コルネリウスは父王にベルベットが「相応しくない」と言われても意に介しませんでした。プーカになってからも。
>いくら父王にベルベットを諦めるよう促されても、コルネリウスがとうとう首を縦に振ることはなかったように。


コルネリウスにつきまして、上記のように書きましたが、こちらも捕捉します。
恐らく意味は伝わっているとは思いますが、彼がベルベットから距離を置こうとするのは
彼自身のためではなくひとえに「プーカを愛することはできないであろう、
ならば同情で縛ってはいけない」というベルベットへの思いやりゆえです。

  • 大樹@管理人
  • 2016/08/04 10:36 PM
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